夜久野のお寺【本光寺】

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本光寺について

・1600(慶長5)年関ヶ原の合戦によって徳川氏の覇権が確立し、戦国争乱の時代を経て、天下はようやく平和の機運に向かうこととなった。
徳川家康はその宗教政策として、本願寺教団の分立を行い、1602(慶長7)年に教如上人(西本願寺系准如上人の兄)に寺地を寄附し堂宇を興させ、東本願寺の分立を見るに至った。本光寺の開創はこの頃のことである。

・1607(慶長12)年本光寺の初代住職中島正信(俗名は中島仁兵衛と言い、直見城主絹川駿河守の家老であった。元近江国住人中島氏の第5代目)が東本願寺の教如上人に帰依し、東本願寺の直参に召し上げられる。この年をもって本光寺の開基とする。教如上人より阿弥陀如来絵像・十字名号・輪袈裟を賜り、西垣の小字正信川に正信が念仏の道場を開く。

・1630(寛永7)年本光寺の寺号と木像阿弥陀如来を下付される。このとき下付された木像阿弥陀如来が現在本堂に安置されている本尊である。
かくて初代正信の念願によって本光寺の寺基が確立された。

・1662(寛文2)年親鸞聖人絵像を受ける。

・1670(寛文10)年蓮如上人絵像を受ける。

・1674(延宝2)年聖徳太子絵像、七高僧連座絵像を受ける。
初代正信より第5代貞吟に至る間、正信川の地に寺堂を営んでいた。

・1767(明和4)年第6代諦了の時代、現在の地に移転、現在の堂宇を建立した。堂宇建立は、西垣の井上三良左衛門を取締役として大工棟梁出石材木町角岡義八郎宗貞、檀那頭宮垣尾﨑又次郎(与平次)その他門徒の力を結集して、地方寺院としては稀に見る優秀な建築を完成した。

・1783(天明3)年親鸞聖人伝絵4幅を受ける。

・1840(天保11)年第8代諦岸の時代、地元大工により鐘楼門(念仏門と呼ぶ)を建立し、梵鐘が鋳造された。念仏門の扁額は諦岸の筆になる。
    鐘楼門建立後、続いて高塀を新規に普請して一通り堂宇の完成を見た。

・1892(明治25)年第10代正秀のとき、直見8ヶ村の有志が名号石を建立。

・1942(昭和17)年梵鐘が軍需資材として供出する。

・1951(昭和26)年第12代正賢のとき、梵鐘を新鋳する。

・1956(昭和31)年鐘楼門修理(茅葺き→瓦葺き)

・1964(昭和39)年本堂修理(茅葺き→瓦葺き)、庫裡改築

・1993(平成5)年第13代正英のとき、鐘楼門改修(京都府の補助を受け、部材取替)

・2000(平成12)年墓地造成完成

・2003(平成15)年永代供養塔(救世観音菩薩像)建立

・2004(平成16)年後堂改築落慶法要廊下改修蓮如上人500回御遠忌

・2014(平成26)年本堂屋根葺替、山門袖塀高塀改修、本堂格天井花丸絵、落慶法要宗祖親鸞聖人750回御遠忌